BABYMETALとさくら学院に出会った

いろんなテーマで、BABYMETALとさくら学院への愛を語ります。

2016年7月と8月のこと。~ロック・フェスティバルとBABYMETAL~

2016年の夏がやって来ました。BABYMETALはワールドツアーでアメリカを駆け抜けている真っ最中で、2016年7月12日にはシアトル、7月14日はサンフランシスコ、15日はロサンゼルスと西海岸をまわり、7月17日はシカゴで行われたChicago Open Air 2016(Slipknot、Kornなどが出演)のステージに立っています。そして7月18日にはクリーブランドでAP Music Awards 2016に出演しロブ・ハルフォードとの共演を果たしました。

 

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これは… 凄いですよね(笑)。

自分はヘヴィメタルに疎い、と書きましたがそんな僕でもJudas Priestの事は「普通に」知っていますし、ヘヴィメタルの歴史そのものを創り上げる形で40年以上のキャリアを重ねてきたロブ・ハルフォードとの共演がそのジャンルにおいてどれだけ光栄なことか、よく理解ができます。こういったお祭り的共演は “実現” こそが重要で内容はあまり重視されない。という事もよくありますが、BABYMETALには(今回に限らず)そういった妥協は一切なく、とにかくこのSU-METALとロブのガチンコ・ヴォイスバトルは何度観ても感動的です。BABYMETALの楽曲という枠を外した状態でSU-METALのヴォーカルのポテンシャルが明らかになった瞬間であったかも知れません。

 

さて、2016年の夏はBABYMETALにとってロック・フェスティバルを巡る夏でした。KOBAMETAL氏が自ら語っていたように、この年は日本の「4大ロック・フェスティバル」を制覇することを目標にバンド側からのオファーも含めて動き、それを実現させました。7月24日のフジ・ロック・フェスティバル(WHITE STAGE 18:10~)を皮切りに、8月6日のロック・イン・ジャパン・フェスティバル(GRASS STAGE 11:50~)、8月12日のライジング・サン・ロック・フェスティバル(SUN STAGE 17:00~)、8月21日のサマーソニック(大阪 SONIC STAGE 20:30~)。全てのフェスティバルでBABYMETALのステージは大きな話題となり、そのパフォーマンスを目撃した人たちに忘れられないインパクトを残しました。

  

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写真引用:Qetic https://qetic.jp/

 

これらの日本を代表する4つのフェスティバルはそれぞれ環境やコンセプトが異なりどれも素晴らしいフェスと言えると思います。その中でも僕が個人的に強く思い入れを持っているのがフジ・ロック・フェスティバル(以下フジロック)です。1999年に初めて参加してから2011年までの13年間で合計10回も足を運んでいるこのフェスは、間違いなく20歳代~30歳代までの自分の音楽人生の中心にあったと言って良く、そのフジロックに40歳代突入直前の自分が最も魅了されているBABYMETALが出演すると知った時は、喜びと興奮以外の何物もありませんでした。サマソニ、RIJ、RSRと比べてもより一層幅広いジャンルのアーティストが世界中から集まるフジロックで、BABYMETALの出演は土曜日のWHITE STAGEで18:10から。同日のWHITE STAGEはこんなラインアップでした。

 

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かなりごちゃ混ぜというか、攻撃的なラインナップだと個人的には思っていて、その「容赦なさ」がとても嬉しくもありました。フジロックのブッキングの先鋭性と確かさはこれでもかというくらい良く知っていたし、現代的なジャズやマスロックのアーティストなどに囲まれて18時という素晴らしい時間帯にパフォーマンスをするというのは、BABYMETALがアーティストとしてしっかりと認められている証だと思ったのです。ソニスフィアやレディングなど、これまでBABYMETALにとってフェスへの出演は常にターニングポイントとなって来ました。それは対オーディエンスという意味だけではなく、まだまだキャリアの浅いベビメタにとってロックフェスは数々の一流アーティストとの重要な接点であったからです。より雑多なジャンルを網羅したフジロックでも、彼らにとって大きな出会いがありました。言うまでもなく、その日のヘッドライナーであったRed Hot Chilli Peppersです。Twitterで、ステージ袖からチャドやフリーがBABYMETALのパフォーマンスを見ている写真を目にした時には、また新しい何かが始まる予感がはっきりとありました(まさかあんなにも早くそれが実現するとは思ってもいませんでしたが…)。

 

もう一つ、個人的にとても嬉しかったのは、自分のフェイバリットであったG.Love&Special Sauceのベーシスト、ジミー・“ジャズ”・プレスコットがインスタグラムでこんな投稿をしていたことです。

https://www.instagram.com/p/BIPd7gHg3eI/?taken-by=jimijazzmusic

(このバックステージからの「YAVA!」は、あまり知られていないのではないでしょうか?)

 

G.Love&Special Sauceはこんな感じの音楽をやる人たちなんですが…

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やはり、良いものはジャンルを超えて伝わるんだ!という実感を得られたこと。そして自分が全く異なる時期に、異なる入口から好きになった2つのものが繋がったということ。それが本当に嬉しかったのです。大阪でSONIC STAGEのヘッドライナーを努めたサマソニ、国内ロック勢中心のラインナップの中で盤石の盛り上がりを見せたRIJ、RSRはBABYMETALにとってホームだったと言っていいでしょう。そして、アウェイとまでは行かずとも、多くの初見のオーディエンスを魅了し、素晴らしい邂逅のきっかけとなったフジロックを含めて、2016年夏のフェス行脚はショウとしてもマネジメントとしても間違いなく大成功でした。

 

 

 番外編 ~道なき道を切り拓くということ~ 

 

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ここからは少し寄り道をして、フジ・ロック・フェスティバルについて書きたいと思います。

 

フジ・ロック・フェスティバル(以下フジロック)は1997年7月に山梨県富士天神山スキー場で第1回が行われ、98年は東京都豊洲の特設会場、そして99年以降は現在に至るまで新潟県苗場スキー場で開催され続けています。今でこそ野外ロック・フェスティバルの敷居は低くなり、気軽に足を運べるレジャーの1カテゴリーとして市民権を得ていますが、フジロックが誕生した1997年当時は、野外でのフェスはおろか巨大な会場でのオールスタンディングライブすら珍しいという時代でした。フジロックの初期の歴史やエピソードについては書籍や映像作品で詳しく知ることができます。

 『やるか FUJI ROCK 1997‐2003』(単行本)

https://www.amazon.co.jp/やるかFuji-Rock-1997‐2003-日高-正博/dp/4484034085/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1524369192&sr=8-1&keywords=やるか FUJI+ROCK

 『FUJIROCKERS ~HISTORY OF FUJI ROCK HISTORY~』(DVD)

https://www.amazon.co.jp/FUJIROCKERS-HISTORY-FUJI-ROCK-FESTIVAL/dp/B0034LS842/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1524369344&sr=8-3&keywords=fuji+rock+festival+DVD

 

僕は1999年~2004年と2007年、2009年~2011年の合計10回、すべて苗場で行われたフジロックに参加しました。天神山での伝説的な第1回には行っていないのですが、参加した友人はその時のことをこんな風に語っていました。

「朝から雨が降ってて標高もあるから寒かったんだけど、そんなのはどうでも良くなるくらいに客側のテンションが高かった。とにかくこれを待っていた、という空気が会場全体に充満して爆発して、荒天でこの後どうなるかなんて考えていられないという感じだった。レイジ(Rage Against The Machine)の時はもう暴風雨になっていたけど間違いなくピークで、後にも先にも日本のライブであんな光景は見たことない。それで、レッチリが始まったころにはもうみんな体力が残ってなくて、風雨に打たれながらぼろ雑巾みたいになって棒立ちで観てた。」

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ちなみにこの時のレッチリはギターがデイヴ・ナヴァロで、アンソニーはバイク事故で腕を骨折中というなかなかレアな状況だったのですが、結局会場と観客の状態を考慮してセットリストを完遂できず、30分程度でヘッドライナーとしての演奏を終えています。そしてその日の夜に、BECKやGreen Dayなどが出演予定だった2日目の中止が決まりました。1997年のフジ・ロック・フェスティバルは伝説として今も語り継がれていますが、それは「大失敗」の伝説だったのです。翌1998年は会場を豊洲に移しての開催となりました。結果としては2日間で6万7千人を集め興行的にも成功だったのですが、当時は日本に本格的なロックフェスティバルが誕生したというトーンで報道をするマスコミは(音楽雑誌以外には)少なく、熱中症で倒れた観客の姿ばかりが大げさに報じられていたのを覚えています。20年前には、ロックやダンスミュージックを若者が野外で楽しむフェスティバルを許容する人は日本ではまだまだ少数派でした。

 

 1999年春、ある音楽雑誌の広告でフジ・ロック・フェスティバル ‛99が苗場スキー場に会場を移し、3日間にわたって開催されると発表されました。当時大学3年生の僕は、この瞬間に迷いなく苗場に行くことを決意しました。野外で、山で、キャンプで、3日間のロック・フェスティバル。前年は都心で開催されたフジロックは、その原点であるグラストンベリーと同じスペックで開催されることになりました。キャンプインによる野外フェスティバルが普通の時代ではありません。アウトドア雑誌やWebサイトを見ても、装備や必要なアイテム、テントの張り方や体調管理など3日間に渡る野外でのフェスを乗り切るコツを教えてくれる媒体は見当たらず、全てを自分で調べ、判断し、決めて、行動しなければなりませんでした。

 

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 今のようにTwitterやFacebookもありませんでした。情報共有の場となったのは、フジロックの公式HPに設置された一つの掲示板と、そこから発展していった有志の運営によるファンページです。下記はそのファンページがコアな機能をTwtterなどに移行した際の案内の文章です。ここにはフジロックが産まれてから育つ過程でインターネットを介した人と人の繋がりが不可欠だったこと、現在ではそれがSNSを通じて可能になったことが記されています。

fujirockers.orgについて | fujirockers.org

 

雨の対策をすること。足元をしっかりと覆う靴を履くこと。水分補給を怠らないこと。夜は気温が下がるので防寒具を用意すること。野宿は絶対にしないこと。全てのアーティストを観るのは不可能なので、時間と心に余裕を持って行動すること。3日間の野外フェスを “サバイバル” するためのコツと情報がネット掲示板で共有され、そのコミュニケーションを通じてそこに集まる人たちは顔を知らなくてもお互いに仲間意識を持つようになりました。僕たちは自分たちのことをフジロッカーズと呼ぶようになっていました。その頃関わっていた誰もが思っていたのは、「今回のフジロックが失敗したら、このフェスはもう2度と開催できないだろう」という事でした。97年の失敗、98年は興行的には成功したもののマスコミに叩かれ、99年当時はまだ苗場の地域住民の人たちの中に「ロック・フェス=危険なイベント」という認識が強くありました。ここで問題を起こして致命的なダメージを与えることは絶対にしてはいけない、という気持ちが、むしろ参加者側に強くあり、それが当事者意識に繋がり「フジロックを一緒に作り上げている」という感覚がありました。今になって思えば一方的で勝手な思い込みだったんですけれど。

 

そうして知恵を絞り、自分たちの力で情報をシェアして準備をした結果、1999年苗場初年度のフジ・ロック・フェスティバルは大成功に終わりました。好天に恵まれたこと、豪華なヘッドライナーの素晴らしいライブはもちろん、出演したアーティストや海外メディアが揃って称賛したのは会場のオーガナイズと清潔さ、そして観客のマナーの良さでした。もしかすると主催者が意図していたものではなかったかも知れませんが、この年の成功でフジロックは「世界一クリーンなロックフェス」という称号を得て、それはその後の日本の野外ロックフェスティバルにおいて一つの基準となる価値観となりました。

 

 99年、Hi-STANDARDで作った幾つものでっかいサークル。星空の下で踊ったUnderworldのステージ。00年、Blankey Jet Cityの “ラスト・ダンス” とThee Michelle Gun Elephantの底抜けなパーティー。01年、深夜0時を過ぎても終わる気配がなかったNeil Young&Crazy Horse。02年、ジョージ・クリントンが飛び入りした「Give It Away」の興奮。フジロックは毎年のように自分の音楽遍歴の中でも「伝説級」のパフォーマンスを産み出してくれて、そういうライブの歴史が重ねられるごとに、日本にロック・フェスという文化が少しずつ定着していったように思います。2010年代に入る頃には、大小様々なロック・フェスティバルが年間を通じて全国各地で開催されるようになり、日本のポップカルチャーにおいて完全にメジャーな文化になった、と感じられるようになりました。それは、音楽だけにとどまらずファッションやライフスタイルにも影響を及ぼしている、と実感できるほどでした。1999年当時には次回の開催も約束されていなかったフジロックが自ら切り拓き、後に続いた者たちと一緒に創り上げた文化でした。あの頃、僕らは主催者と一緒になって戦っている気持ちでいましたが、今は自信を持ってその戦いに勝った、と言えると思います。

 

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さて、このブログがBABYMETALについて書くブログという事を忘れそうになっていました(笑)。なぜこのブログでフジロックについて詳しく書こうと思ったかを少し言い訳します。乱暴に要約すれば、「勃興期のフジロックがくれた興奮と感動は自分の音楽人生で唯一無二だと思っていたけれど、40歳を目前にしてBABYMETALがそれに匹敵するものをぶち込んできた」という事です。ロック・フェスティバルという様々な要素を含んだものと1アーティストであるBABYMETALを重ねることには無理があるのですが、僕の中ではフジロックとBABYMETALには共通の感動がありました。

 

始動当初から大きな「野望」があり、手堅さというよりも常に考え得る限り最も攻撃的な方法でアーティスト活動をおこなってきたBABYMETALは、いつどのタイミングでその活動を終えても不思議ではないような、先の見えない闘いを続けてきたと思います。僕がリアルタイムでは体験していない2014年~2015年の海外へ殴り込みの時期などは、どうだったのでしょうか?当時、成功への期待が膨らむ一方で、一つの失敗が道を閉ざすかもしれないという不安がメイトさんたちの間にもあったのではないでしょうか。誰も守ってくれない、大きなリスクを伴う闘いにことごとく打ち勝ち、この国では前例が無かったようなやり方で、新しい文化を創り出すくらいの活躍をしてみせる。その姿を想像するとき、僕はどうしてもBABYMETALとフジロックに共通項を見出そうとしてしまいます。

 

フジロックもBABYMETALも成功が保証されたプロジェクトでは全くありませんでした。インディペンデントな活動から始まり、マスコミや “世間一般” には味方されなかったけれど、強固で強力なサポーターとしてのファンベースを持っていました。そのファンベースを巻き込んで周囲が驚くようなアクションを次々と起こし、成功を積み重ねた結果、ブームではなく実力を以てして日本の音楽シーンに新しい価値観を築き上げました。道なき道を切り拓く。この言葉はBABYMETALの歩みをこれ以上なく正しく表していると思いますが、僕にとってはこれは90年代終わりから00年代前半のフジ・ロック・フェスティバルにも当てはまるものです。

 

20代前半のころ、ロック・フェスティバルの文化を日本に根付かせる過程に観客として参加し味わった「時代を動かしている」という感覚。2年前まで、音楽を通してそれを感じることはもう無いだろう、と思い込んでいました。そして、今は。たった一組のアーティストがその思い込みをいとも簡単に打ち壊してくれました。40歳になった僕は、BABYMETALの背中を追いかけることで、再び時代が動いているという感覚を味わいながら、視線を未来へと向けることができています。

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写真引用:Qetic https://qetic.jp/